こんにちわ!
ヤマケンです
今日はこのブログにきて
いただきありがとうございます
日光の猿軍団が復活するという
ニュースがでてきましたね
日光の猿軍団は非常に有名でしたが
2013年に無くなっているという
事を知らなかった人も
多いんじゃないんでしょうか?
僕は知りませんでした(笑)
今日は日光猿軍団についてや
創業者である間中校長と
復活後のリーダーである
村崎太郎氏&次郎について
書いていこうと思います
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■日光猿軍団とは
まず日光猿軍団のはじまりについて
書いていこうと思います
日光猿軍団は日光江戸村にて
土産屋を経営していた間中校長こと
間中敏夫氏がTVで見た猿の曲芸を
きっかけにして独学で二匹の
猿に芸を教え込み始めた事から
はじまります
独学というのはすごいですね
間中氏は1948年に埼玉県で
7人兄弟の家に生まれます
小学校1年生の時から
新聞配達をするなど幼い時から
お金を稼ぐことを学んでいきます
中学卒業後に郵便局に就職しますが
仕事の内容に満足いかず6年勤めて
退職してしまいます
そのあとはトラック運転手や大工
魚屋やセールスマンなど職を転々と
しながら様々な経験を積んでいきます
間中校長は体験意欲旺盛な人物で
これだけでは物足りないと
思ってっしまうのだそうです
猿の芸を独学でしこんでしまうのも
そういった並々ならぬ好奇心から
できた賜物なんでしょうね
独学で教えていた時は猿に
ゴミを拾わせるなど猿が
自発的に行うようなことを
教えていたそうです
まさに起業家といった人物でしょう
■猿軍団の解散の理由
独学で始まった猿軍団は90年代の
はじめにはいると大きくなっていき
日光の名物となっていきます
しかし2011年3月に大きく状況は
かわります
東北を襲った3.11です
未曽有の大災害により客足は激減し
韓国や中国から来ていた調教師は
母国にて心配する家族の声により
ほとんどが帰国してしまいます
また猿軍団の猿たちも高齢化が進み
満足に食事もできなくなっていました
こういった状況の中で間中校長は
猿軍団の解散を決意します
2013年の末に解散イベントを
行いましたがその時は往年の
ファンたちが解散を惜しみ日光に
押し寄せ大盛況のうちに解散を
おこなったといいます
猿軍団は解散してしまいましたが
間中校長のもとには多くの
猿軍団復活の手紙やメールが
やってきたそうです
しかし間中校長には後継ぎとなる
人物がおらず継続が難しかった
ためなかなか復活に至りませんでいた
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■太郎と次郎とは
猿軍団解散前から間中校長の後継ぎを
したいと猿の曲芸で有名な太郎こと
村崎太郎氏が懇願していました
猿軍団と太郎氏の芸風はまったく
異なるもので間中校長は難色を
示していました
しかし太郎氏はあきらめず50回も
足を運びました
また上述したようにファンからの
手紙に押された間中氏は太郎氏を
新リーダーとした猿軍団の復活を
認めたのです
ここで太郎氏とそのお供次郎に
ついて書いていこうと思います
太郎氏は1961年に山口県で
生を受けます
父親が1977年に周防猿まわしの
会をたちあげたのを機に
猿の曲芸を行うようになります
1988年に笑っていいともに
猿の次郎とともに出演したのを
機に人気がでて有名になっていきます
2007年には太郎氏の半生がドラマに
なるなどいまだにその人気は衰えません
相方の次郎は2006年に生まれた
4代目の猿です
ちなみに次郎は芸名で本来の名前は
太陽というらしいです
猿にも本名ってあるんですねw
■まとめ
今回猿軍団や間中校長の事を
調べていて面白いと感じたのは
間中校長のその経歴です
非常に多彩な経験をお持ちの方なので
より詳しく知りたい方は調べると
面白いのではないかなと思います
それでは今日はここまでです
最後までお読みいただき
ありがとうございました!
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